◎御理解三節の教学。この世先の世までもの御守護。松桐坊主の花札。氏子信心しておかげを受けてくれよとは、普通で言う幸せが松、次には寂しいことが起きてくる、それが桐、そこを神愛で受けとめ、円満なおかげにして坊主。そういうおかげを受けてくれよということ。おかげの意味。神愛。
%1嫁姑の問題から
%V%U


昭和四十三年十一月一日朝の御理解


X御理解第三節「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々のめぐり合わせで難を受けおる。この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす」


 %U「上下立つように致す」ここに、天地の親神様の願いがこめられておる。いわゆる「氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つように致す」とは、いよいよ神も立ち行き、氏子も立ち行き、親も子も立ち行くというそこんところの願いを金光大神の取次によって、分ってたもれよ、というようなものを感じます。

 何故、理解申して聞かせねばならないのか、氏子ありての神、神ありての氏子のこと訳、上下立つように致すと云う、どうすれば上下立つようになるのか。

 %U「天地金乃神と申すことは、天地の間におっておかげを知らず」天地金乃神と申すことは、この世、さきの世、兼ねて御守護下さる。天地の御恩恵を受けねば、ありとあらゆる生きとし生けるもの、天地の御恩恵に浴しなければ立ち行かない。そこ迄は、これは学問の力でも分かります。けれども、さきの世とても、天地金乃神、いわゆる、天地の御恩恵を受けねば立ち行かない。とゆう、ここは信心によらなければ分からないと云う事。

 %V%Uこの世、さきの世と続いておる間は金光様、死んでからは仏様と云う訳にはまいりませんねえ。この世、さきの世を、兼ねて御支配下さる。そこんところが分からしてもらえるのが、信心。そこんところが分からして頂くところに、「氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つように致す」とおっしゃる、その上下が立っていく。

 %V%Uこの世では神様、来世では仏様では、氏子ありての神、神ありての氏子と云う事になっってこない。そのこと訳を教えておられる。「天地金乃神と申す事は、天地の間に居って、おかげを知らず」天地の御恩恵を受けねば、この世は枯れ果ててしまう。そこ迄は分かっておる。けれども、さきの世迄もそうだとはみんなが知らない。これは信心にたよらなければ分からない事である。いわゆる「生きても、死にても、天と地は、我往家と思へよ」とおっしゃる。それなんです。

 %V%Uそれが「天地金乃神と申す事は」とおっしゃる。そうゆう神様を金光大神のお取次に依って理解申して聞かせ、分からせて頂く。その事は、まずどうゆう事を分からせて頂くか。「神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々のめぐり合わせで難を受けおる。」これは、以前くわと頂きましたですねえ。ここが一番大事なところ。「天地の間におって、おかげを知らず」と云うのは、こうゆうところが分かれば、おかげが分かってくるのです。この御理解第三節は、教団でも非常に大切な御教えとして、問題なる御理解です。ですから、ここのところを、明快に、スッキリ、ハッキリと分からして頂かんとですねえ。いわゆる、前々のめぐりで難を受け続かねばならんのです。

 %V%Uここでは、「前々のめぐりで難を受けおる」とおっしゃる。前々のめぐり合わせで難を受ける事のないおかげを頂く為に、ここのところが、「神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所」ここでは、こう云ってありますが、これをひっくるめて、分かりやすく云うたらね、「一切が神の御もの」と云う事を、云うておられるのです。一切が神様の御ものであるとゆう事が分からしていただかななりません。

 %V%U同時に、思い違い考え違いをしてはなりません。いわゆる見当違いな事を、云うたり、したりしてはならないと、云うてあります。そこんところを、「方角日柄ばかり見て、無礼いたし」とこういうておられます。天地の運行と云おうか、天地の微に入り、細にわたっての働きに、いわば、けちをつけるような事。今日は、何の日であるから良い日であるとか、今日は悪い日であるとか、天地の親神様の御地内に、方角が良いの悪いのと云うような見当違いな事。神様の御ものを自分のものに思うたり、日のお照らしあるのに、良い日、悪い日を云うたり。

 %V%Uそうゆう事は、いわゆる、見当違いな思い方、違った思い込みを持っておるところにです、それが自然、俺が俺がと云う事になったり、見当違いな事で、いわば一喜一憂するところにです。それが神様の気感に適わぬ、いわゆる、御無礼になって、それが巡りになっておるとおっしゃる。ここんところが、「前々の巡りで難を受けおる。」とおっしゃる。

 %V%Uそんなら、そこが分かれば巡りの元をつくらんですむかと云う事をですね、その、例えば、「神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所。」と云うところが分かったり、日柄方角やら見さえせにゃあ、そんなら、これは、そうゆう巡りをつくらんですむかと云うと、そんな事はないですよね。

 %V%U何故かと云うと、日柄方角ばかり見るのは、日本人だけのようなもんです。アメリカの人やら、そんな日柄方角やら云いません。して見ると、アメリカの人たちやら、難儀はあってはならないのだけれども、 やはり難儀を持っておるとゆうところなのです。

 %V%Uそれは、そうゆう見当違いの考え方。ここは、見当違いの考え方と云う事。そうゆう見当違いの考え方をしておると云う事が、いろいろな形に表れてきて、それが積もり積もって、それが御無礼になって、それが巡りになって、難儀の元になっておると、こういわれておる。

 %V%Uですから、ここんところが分かってくると、私共がこれから後、もう、巡りを作らんですむ生活に入っていけれるのです。ここを信じ、ここを分かれば。

 %V%Uその訳を、「この度、生神金光大神を差し向け。」とこう云うておられます。この御理解第三節は、いろいろに説かれておるのですけれども、私は、そのように頂くのです。

 %V%Uそこで、ここでひとつ思わして頂く事ですけれども、「願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと。氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす。」とあります。この、「末々まで繁盛致すこと」とおっしゃる、末々まで繁盛していく事のおかげを頂かせて頂く、しかも、上下立つようなおかげになっていくと云う、そのおかげとはどうゆうおかげか。

 %V%Uなる程、「願う氏子におかげを授け」というところは、病気が治りました。こうゆう問題が解決しました。金銭のお繰合わせを頂きました、というところじゃないでしょうかねえ。「願う氏子におかげを授け。」まず、金光様の信心させてもらえば、本当に知らなかったこうゆうおかげの頂ける神様がござったのに…………………。だから、願いに来ればおかげを授けて下さる。

 %V%Uけれども、その先が、「理解申して聞かせ」とあります。末々繁盛致し、最後の、上下立つようなおかげを頂くために、これから理解申して下さるのです。ですから、その理解申して下さる事を聞き、分からなければ、これは、せっかくの神の願いである、上下立つよう致すというところの、神の願いが成就しない事になるのです。

 %1昨日、丁度昼前頃、こちらで娘時代信心させて頂いたけれども、おかげを頂いて、縁あって遠方に縁ずいていった訳です。もう本当に、こげなすばらしいところにもろうてもろうて、と有難かった。向こうの家庭も良い、お母さんも良い、主人はなおさら良い。

 %1ところが、段々おかげを頂いて、子供が出来て行く。そうしておるうちに、そうゆうような素晴らしいと思うておった有難いところのお母さんが、意地悪うなってきなさった。ことごとに当たり散らかされる。そこで、主人にそれを話した。主人もそれを聞いて心配し、心を痛めておる。それというのも、近所に、主人の兄弟が何人もおられる。その兄弟の人達がやって来ては、たきつけるような事を云う。そこで、その寝耳に水、というような事を云うては、お母さんの心を乱す。いよいよ親子の中が思わしくなくなってくる。

 %1主人は、家内を信用しておるし、家内もじゆずなかろうと云うので、最近、しばらくの間家別れをしようとゆう事になってきた。それで、お繰り合わせを頂いて、町から少し離れた所に、家を借りて別れる事になった。夫婦の間は、それで具合よういくかに見えたんです。けれども、さあ納まらないのは、お母さんの方であり、兄弟たちの方である。その方は一人息子なんですよね。

 %1それで、もうここを見捨てて出て行くごたるなら、もう親子の縁を切って、勘当する、という事になった。そこで、まあ分かりやすく云うなら、嫁と別れるか、親と別れるか、さあ、いついつ何時から家族会議を開いてその事を決めるから夫婦で出てこい、という事になったのが、昨日おとといである。それで、お母さんに、里の方です。電話がかかってきた。もう、それこそ、泣きの涙でかかってきた。

 %1主人がその事で帰ります。けれども、私の方は、見ろうこつも、お母さんも兄弟もおっておるのに、私が行ったら、いよいよ油に火を注ぐような事になろうと、自分も、どげん思うても向こうが面見ろうごとなかなら、こっちも見ろうごとなか。だから私は行かんと、こう云うけれども、主人が、どうでも来いと云う。そして、俺は今日は、はっきり言うて来る。一人息子で、自分が親見らにゃならん事は分かっとるけれども、勘当すると云うのなら、勘当されてもええ、親とは別れても、おまえとは別れん、俺はその位に思うとるから出てきてくれ。それでも行かん。どげん思うても、あの、お母さんやら兄弟やら面は、それこそ、こっちも見ろうごとなか。向こうもそうだから、これはかえって話が具合よういくまい、と思うけれど、主人が、来るとだけはどうでも来てくれ、と云う。どうしようかと云うのが、電話でのお母さんに対するおうかがいであった。

 %1お母さんが、すぐその事をお取次頂いて、それはどうであっても行くだけは行かにゃいかん。お繰り合わせを願うておくから、行くだけは行け。

 %1もう、それこそ、屠殺場にひかれる牛のような気持ちでついて行った訳なんです。そして、昨日、お礼に出てきた訳なんです。電話でお礼をと思うたけれども、今日ばっかりは先生、お礼に出らにゃと思うて、直接こちらへお礼に出てきた。

 %1話を聞いてみると、素晴らしいタイミングの中に、おかげを頂いておる。丁度、話し合っていた時間に行ったけれども、兄弟達がまだ来てない。お母さんも、だから心静かに、夫婦も冷静に話を聞き、話をする事が出来た。大体が、そのわきから中傷が入っての事であるから、はあ、そげなこつであったか、そうであったかと云うのが、お互いが分かりおうた。本当に、面見ろうごともなか嫁が、本当の事が分かってきたら、向こうとしても、その接し方が変わってきた。こっちも、面見ろうごともなか、おっかさんじゃったけれども、段々いじらしゅうなってきた。

 %1そして、このお母さんに不幸しちゃならんと、しみじみ思わせて頂いた。そうして、話が済むけれども、兄弟達が来なかった。帰りがけに、なにがしかのお金を、これはお賽銭にと云うて渡したら、おっかさんが涙を流して喜ばれた。

 %1◯◯さん、私は、あんたたちの他にはかかろうとは思わんけんよろしゅう頼む、というて泣かれた。しばらくの間は、別れておるけれども、いつかは必ずここに帰ってきておくれ。それはもう、最初から帰ってくるはずだった、と云うて、主人も云い、嫁さんもそれを云うた。ここで、お互い親子のことが分かり合い、解け合ったから、これは、お互いの為にも、大した離れた所じゃないから別れておけばいいし、そして、何かの時には、もちろん行ったり来たりも、そしてもちろん、時々は孫の顔も見せておくれ、また行きもします、来もします、と云うような話し合いになった。

 %1それこそ、嫁の手をしらんばかりにして、私は他の者にかかろうちゃ思わん、とにかく、あんたより他にはかからんと云うて、泣かれた、とこう云う。

 %1もう、嫁入りして初めて、そうした親の心情を聞かしてもらい、同時に、嫁入りして初めて、主人の喜んだ顔を見たと云う、本当に喜んだ顔を。

 %1それは、おまえとは別れても、親とは別れきらん、と云うのじゃない、親とは別れても おまえとは別れきらん、と云う程しの主人だから、仲もよか訳なんです。けれども、嫁入りしてこの方ですね、その嫁と自分の母親とが仲ようやっていく、その姿を見てですね、もう主人の名前を云うて、◯◯さんのあげな喜んだ顔は初めて見たと云うて、昨日、お礼のお届けに来ております。

 %1私は、そのお取次をさして頂きながら、御心眼に頂きます事がね『Zあの花札の、「松、桐、坊主」を三枚』見せて下さるんです。

 %1Z『お互い信心をすすめていく、それこそ、こうゆうすばらしい所にもろうてもろうて、こうゆう素晴らしい主人にもろうてもろうて、こうゆう良い家庭に、それこそおかげであるから、それをおかげと云うておるけれども、それは云わば、松なんです。』

 %1Z『ところが、段々、桐になってくる。桐というのは、さみしい時に頂く。桐と云う字は木辺に同じと書いてある。云わば本当に、「願う氏子におかげを授け。」願う氏子に、願っておかげを授けて、こうゆうおかげが受けられる神様だと分かった時の有難さと云うものが出ず、寂しゅうなる、桐になってきてもです。木は同じ、同じ心で、本当云うたら、もっと有難い心でそこを受けていかなければならないと云うのである。』

 %1Z『これが、松、桐、次に坊主、黒い山に、満月が上がっておる所の絵がついておるでしょう、あれは。それこそ、円満に、まん丸いおかげの頂けれる為の過程が、松であり、桐であり、坊主である。』

 %1Z『そうゆうおかげを受け止めた時です。初めて、親も立ち行けば、子も立ち行く、そこん所が分かり、嫁の心が分かり、親の心が分かって、本当に、このお母さんに不幸しちゃあならん、と云う嫁の心と同時に、あんたより他にかかる者はなかけんと云う、お母さんの云う、そのおかげがです、その次に生まれた時に初めて、いわゆる坊主のおかげなんです。』

 %1Z『いわゆる、松、桐、坊主と云う。一番大きい得点になるのですよね、あれが。と云う徳にもなれば、点にもなってくるのです。それが。ですから、お互いがこの松のおかげでと云う、ところと同時に、桐のところを大事にしなければならない。』

 %V%Uそこん所を大事にしなければならない事柄を、事訳をです、金光大神は、「理解申して聞かせ」と下さるんですよ。一切が神愛と、一切が神様の御ものと。

 %V%Uこの世の中に、宮の地所でもなからねば、寺の地所でもない、皆神の地所なんだ、毎日毎日のこの日々の中にです、良い日、悪い日があろうはずがない。日のお照らしある間に、お天道様のお働きを、この地球上に受けておる間にです、良い日、悪い日はあるはずはないという事訳を聞かしてもらうから、雨の日も有難いなら、お天気の日も有難い、寒い日も有難いなら、暑い日も有難いと分からして頂く信心。

 %V%Uそこを分からして下さるのが金光大神なんだ。だから、その理知らずに、お互いが難儀をする、自分に都合の良い事だけがおかげ、いわゆる、「願う氏子におかげを授け」おかげを頂いた時だけが、おかげであって、少し寂しくなってくる、少し雲行きがおかしくなってくる、ともうそこに、それこそ、血の雨はふらんでも、毎日が雨続きのようになってくる。親子が、もう親とは分かれても、といったような事になりかねない。

 %V%Uだから、そこんところをです。そこんところを大事にさしてもらう、それを、神様の御都合、神愛の表れとして頂いて、いよいよ改まっていくところの、おかげを頂かしてもらう。そこのこと訳を金光大神は教えて下さるのです。だから皆さん、ここのところが分からねば。

 %V%Uいわゆる、松であり桐である、松のおかげを頂いた時ね、いわゆる坊主のおかげにはなってこない。満月の、お月様のような。あれを思い、これを思い、本当におかげであったと、自分の幸福をしみじみ分からしてもらえれる、感じさせてもらえれるおかげになってこない。

 そうゆう、おかげになってくる時に、例えば、今の家庭問題でもそうです。けれども、いよいよ親も立ち行き、嫁ごが親についていったとゆう、その事だけで、お母さんと嫁との間の溝がとれて、だけではない、主人が今迄かつて見た事のない喜びを、そこに見せると云う様にです、まさに、上下立つ様におかげになっておるでしょうが。

 はあ、入った間は、うちの嫁ごはよか嫁ご、と人にもほめる。もう、うちのお母さんは、理解がある、解ってあると云うて、喜びよった。けれども、それもたった一年余りであった。だから、そうゆう心の状態がです。そんなら、二年目になっても、三年目になっても、いよいよ分かってくるところの、信心を身につけておかなければならないと云う事。

 %V%Uそこにはです、もうめぐりを作っていく隙がない。そうゆう信心には、「前々の巡り合わせで難を受け居る」一切が神様のお働き、神愛の表れ、神様の御都合だと、頂けれる信心、いや、それもおかげと頂けれる信心、それが、松、桐なのである。そして、そこに神の願いであるところの願い、氏子にかけられるところの願い、心は円満に、いつも満月のように、山と月があのカードに出ておる様なおかげ、いわゆる、松、桐、坊主の得点になってくる訳です。そうゆう願いをかけると同時に、そうゆう願いを、天地の親神様が、私共一人一人の上にかけてやって下さってある。

 ですから、そのおかげを頂かせて頂く為にもです。お互いが、ひとつ、この桐のところを大事にしておかげを受けていかなければならないとゆう事を分からしてもらいます。そうゆうおかげの中に日々過ごさして頂いて、分からして頂く事がです、初めて天地金乃神様という事が、どうゆう事か、どうゆう神様かという事が分かる。「天地金乃神と申す事は、天地の間におっておかげを知らず。」このおかげを知らぬところに、天地金乃神の実態と云うのが分らない。

 そのおかげが分かってくるところに、天地金乃神と云う神様が生きとし生きる者が、この神様の御恩恵に浴しなければ立ち行かんと云うところまでは、信心がなかっても、学問で分かるけれども、この天地の親神様のです、おかげを受けなければ、さきの世が立ち行かんとゆう事が分かってくる。この世もさきの世も合わせて御守護下さるのが、天地を兼ねて下さる神様、御守護下さる神様、天地金乃神と申す事は、そうゆう神様なんだ。

 %Vそこで生まれてくるのが、安心、死生観とでも申しましょうか、生きても、死にても、天と地は我が住家と分からして頂ける、実感として、分からして頂けるおかげが生まれてくる。そこに、いつも安心の境地が開けてくる。もう死ぬると云うても心安しと、神様にお礼を申し上げながら、あの世に誕生していく事が出来る。

 そうゆう、云わば信心の究極のところを分からして頂けれる、おかげを頂く為にも、いよいよ松を大事にすると同時に、桐を大事にさして頂くおかげを頂いて、いわゆる、円満、満月の様な坊主のおかげを受けていかねばならんと思うのです。どうぞ。